2007.01.20 魔法のコトバ
やっぱりスピッツはすばらしいですね。素敵な歌です。


「魔法のコトバ」
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「魔法のコトバ」ってあるのかな?



自分の気持ちをすべてを大切な人に伝えられて

大切な人がつらい思いをしているときに支えてあげることができて

二人の間をつないでくれる



そんな「魔法のコトバ」



「コトバ」なんかに頼っちゃいけないのかもしれないけど、でも自分の気持ちを伝えるのにはやっぱり「コトバ」っていうのは大切だと思うから

「コトバ」は口に出したら消えてしまうけど、心の中には残るから



「魔法のコトバ」なんかじゃなくてもいい


「不器用なコトバ」でもいい


自分の思いを伝えることが出来れば

大切な人を幸せにすることが出来れば


やわらかく、包み込むようなコトバ


そのコトバが自分の気持ち

当たり前といえば当たり前のことなんですが、やはり自分は「生きている」し「生かされている」んですよね。


「生かされている」だけだったら、他人に依存しすぎの人生になってしまうような気もしてなかなか好ましくない。

だけど、自分一人だけで生きていくことができないのもまた自明。



小さい頃、今と比べて自分は小さかったけど、その一方で世界における自分の存在というのは今よりも大きかった。

出来ないことなんて何もないような気もしたし、不遜な話「世界は自分のものだ!!」みたいなイメージだったのかもしれない。

年齢を重ねて、当然のことながら自分は大きくなった。
だけど、年齢を重ねれば重ねるほど、世界における自分の存在っていうのは小さくなっていった。

自分の小ささ、狭量さ、無力さ… そういったものが積み重なっていった。
否が応でもそういったものを認識せざるを得なかった。


あぁ、なんだ、自分ってこんなに無力な存在だったんだ。
一人じゃ何でもできない存在なんだ。

そんなことを思った。


だけど、大学に入り一人暮らしを始めた頃くらいからだろうか、ふと「自分は生かされている」というのを強く感じた。

「一人じゃ何にもできない」っていうのはある意味当たり前なのかもしれない

そんな開き直りにも近い感覚が自分の中に去来した。


前述したように、「生かされている」ことに依存しすぎていてはいけないだろう。

だけど、「生きている」という自己認識的なもの一事をもってでは、人間というのは成立し得ないのではないか。


「生きている」と「生かされている」というのは相反するものではなく両立しうるもの。

必死に「生きている」 その中で自分は「生かされている」のだということを認識できるならば、それは恵まれているのだろう。
2007.01.07 成人式を前に
「人」に「成る」とはどういうことなのでしょうか?

「大人」に「成る」こと??

じゃあ、その「大人」って何??


成人式を終えれば大人なのか?
はたまたある一定の年齢を超えれば大人なのか?

それとも、大人の要因をもっと内面的なものに求めるか?


正直言って「大人って何?」って聞かれたら「これだよ」明確に提示することはできない。


けれど、「『かっこいい大人になる』って何?」って聞かれたら、今の自分には一つの答えがある。

それは
「自分の子どもが誇りに思えるような父親になること」。


とっても幸せなことに、自分の父親は自分にとってそういう存在だった。
だから自分もそうありたい。



それともう一つ。

親孝行をしたいしたいといつも思うのだけれど、親孝行って大きく分けて2種類あるのだと思う。

もちろん、親に色々してあげるというのも親孝行。

でも、自分が親から注いでもらった愛情というのを自分の子どもにも同じように注いであげるというのも立派な親孝行だと思う。

だから、今回自分が無事に成人を迎えるというのは、自分の親に対する親孝行であるのと同時に、親のその親(自分の祖父母)に対する親孝行でもあるんだろうなぁ。

そう思うと、今回の成人を迎えることがすごくうれしくなってきた。

だって、親に親孝行をさせてあげられたんだもの。

そして、自分は親からもらった愛情を、将来必ず子どもに注いであげる。


成人式って、親に感謝する日だよね。
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