なんか久しぶりの更新です。

書きたい事は結構あるのですが、この1週間なんかえっちらほっちらだったので。


で、今回書いてみようと思うことは、「同情」について。


友人がブログで書いていたので、せっかくだから自分も書いてみようかと。





以前自分も、自閉症のマンガの話と絡めてこうしたテーマの記事を書いてみたのですが改めて今回書いてみます。





「同情」

このコトバにはさまざまな意味合いがあるように思う。



「同情なんてしてほしくない!!」

よく聞くことです。先週ゼミで講義をしてくださった薬害エイズ被害者の川田龍平さんもそうしたことをおっしゃっていたし、川田さんに限らず自らが何らかのハンデキャップを負うことになってしまった人や、苦しい立場に身を置いている人なんかからもこの種のことはよく聞かれるように思う。

うん、確かにそのとおりだと思う。


「安易な同情は相手を傷つけるだけ。」

正論だね。そのとおりだと思う。正論過ぎるくらいの正論。
自分だって実際に人から「かわいそうに」って言われたときに、「何だよお前、ちっともわかってないくせに!!」と思ってしまうこともしばしばある。


この話をする大前提として「同情」というコトバに明確な定義を与えないといけないんと思うんだけれど、はっきり言ってこれが非常に難しい。

辞書的な意味と、実際的な意味(社会的な意味)が結構違ったイメージを持っているからね。

ここからは後者の意味での「同情」で話を進めていきます。

で、個人的に感じている後者の「同情」のイメージ(といっても、場面場面でこれも変わってきてしまうんだけれど…)は端的に表現するならば「〜してあげる」というもの。

「かわいそうだと思ってあげる」って感じ? もっとも「同情」の気持ちが現れるときに「俺は今かわいそうだと思ってあげてるんだ!!」ということを自らの中に意識している人はほとんどいないと思うが。
「〜してあげる」っていうのは全く意識せずにただ純粋に「かわいそう」と思ってるんだろう。

だからこの場合の「あげる」っていのは「同情」する側とされる側が対等でないってことと考えていただければいいと思う。
いくら相手に共感できたとしてもほぼすべての場合において「同情」する側はされる側の上に立っているだろう。少なくともその場面においては。

だからこそ、川田さんや障害者の方は「自分を対等の存在として捉えてほしい」という思いが強いから、「同情はしてほしくない」と感じるのだと思う。


さて、話はちょっと変わるけれども川田さんの次の週にゼミで講義をしてくださったのが「夜回り先生」として有名な水谷修さんだったのだけど、
水谷さんは

「子どもは褒めてあげないといけない」とおっしゃった。

自分自身もそうだけど、やっぱり人から(特に親から)褒められたらうれしいもんね。

いくら強い子であっても、やっぱり子どもっていうのはすごく寂しがりやだと思うから、人から認めてもらいたいという気持ちを持っているだろうし、

逆に挑戦をしたけれど失敗してしまったときには、親から「よしよし、よくがんばったね」って頭をなでてほしいんだと思う。



で、もうお決まりのパターンという感はあるけど、寂しがりなのはなにも子どもに限った話ではないんじゃないかなと。

人が他者との関係性の中で生きていくことを運命付けられている生物である限りは(あら、ちょっと風呂敷を広げすぎたか、汗)、どんなに強い人でも心のどこかに「褒めてほしい」だとか「なぐさめてほしい」だとかの気持ちを持っていると思う。

だからどんな人でも「よしよし、よくがんばったね」としてほしいと思うのと同じように「同情」をしてほしいと思うことがあるんじゃないかな。
少なくとも自分はある。
時には「見下されてるのかな」と思ってしまうこともあるけど、
その一方で「同情してくれている」ということで「あぁ、ちゃんとこの人は自分の存在を認めてくれてるのだな」と思えることもある。

「よしよし、よくがんばったね」って親から言われると、子どもは「あぁ、ちゃんと親は自分を暖かく迎えてくれるんだな」と安堵することだろう。

それと一緒で、「同情をしてもらう」っていうことで、「あぁ、この人は(たとえ表面的であっても)自分に暖かく接してくれるんだな」とホッとできるんじゃないかな。


失敗したときに「あんた、何やってるの!! まったくもう!!」なんて親に言われたら、子どもは(発奮することもあるかもしれないが)多くの場合落ち込むのではないのだろうか。

自分では良かれと思って同情しなかったのに、それを目にした相手は「自分のことなんてどうでもいいんだ」と思い、さらに落ち込んでしまうかもしれない。
もちろん、「あ、この人は自分のことを対等に見てくれてるんだ」と思うことの出来る人もいるのだろうけど、そうした人は本当に「強い」一部の人に限られるのではないのだろうか。逃げることなく自分のことをきちんと正面からみつめることのできている人。なかなかいないよね、そんな人は。


いつまでも甘やかされていたら、人は成長できない。
だけれど、常に厳しくされることが、人を成長させるかといったら、これも違うだろう。


水谷さんはこうもおっしゃった。

「自分が幸せじゃないと、人を幸せにすることなんて出来ない。」

ならば、もし相手が苦しんでいることで自分が苦しんでいないのであれば、せめて「同情」してあげる(というか、暖かく接してあげる)べきではないだろうか。


もはや、自分が「同情」というコトバを定義(と呼べるほどのものではとてもないが)したことの意味が灰燼に帰した感はあるが、とりあえずこの辺りで。



人に心から「同情」してあげることの出来るならば、その人は(少なくともその瞬間において)「幸せ」な人なんだろう。

その「幸せ」は自分が「同情」してあげているということで優越感に浸っているが故の「幸せ」などではない。

そう思う。
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